沿革戦前(四高時代)~無刀流の系譜~

金沢大学剣道部 沿革

 

前(四高時代)

 

  金沢大学は金沢医科大学・第四高等学校など六校が集まって戦後発足したが、剣道部は初代剣道部長千田勘太郎先生(昭3年南下軍大将 理学部教授)始め金沢在住の四高先輩の支援により活動し四高剣道の影響を受け、かつまたその伝統を受け継いでいるので四高剣道部の始まりから述べるのが適当であろう。

 

 

 

 四高の設立は明治2010月石川県専門学校を前身として第四高等中学校と医学部が開校し明治276月に第四高等学校に改称されたことに始まる。

 

明治28年に校友組織として第四高等学校北辰会が設立された。このころは部制でなく学校の剣道として採用奨励された。

 

明治3210月大学予科の「北辰会」と医学部の十全会」が統一して「校友会」が組織されこのときはじめて運動部の小会として柔道、弓術とともに剣術部が名を連ねられた。明治34年医学部が分立して金沢医専となり再び北辰会が復活された。

 

 武術道場は明治2610月に竣工したが大正610 四高創立30周年記念で新道場ができこれが明治村に移築されている無堂である。

 

道場に掲げられた扁額は明治26年の竣工に当たり第三代大島誠治校長が同郷である大村藩出身の渡邊昇子爵に揮毫をお願いしたもので、出典は孫子虚実編第六の「・・・形無きに至る・・・ 無きに至る・・・」からである。

 

 四高剣道は無堂の創設を間に挟んで、学校創立から明治三十年代はじめまでが草創期で、金沢で行われていた諸流の剣術家が町道場、警察、監獄で教えるかたわら、それらを師範として生徒の同好者が適宜稽古をしていたものであろう。

 

師範として名が見えるのは 秦秀穂 堀惟孝 石川龍三(師範在籍 明治324月~386月)である。石川龍三は当時金沢ではやっていた水野一傳流で九人橋の石川道場は稽古の荒いことで評判であったという。

 

 明治34年剣道師範として赴任してきた無刀流山岡鉄舟高弟の香川善治郎(師範在籍 明治346月~381月)が石川先生と稽古して石川先生は自分と段違いだと思われその場で香川先生に弟子入りされたと伝わっている。

 

これ以降大正の初めまで歴代数人の師範は無刀流で四高剣道は無刀流で戦ったのである。しかし無刀流は三尺二寸の太く短い竹刀で竹刀剣道でのその不利は免れなかったものと思われる。

 

 

 

 大正元年十一月はじめて京都武術教員養成所出身(後の京都武道専門学校)の堀正平(師範在籍大正元年11月~大正89月)が武徳会仕込みのいわば新流の剣道師範として着任し、無聲堂の新旧は大きく交代していくのである。然しながら時代の移行、新旧の交代の課程にあって前代の無刀流の遺風は残存して、大正二年の京都帝大主催の第一回南下戦で特に願い出て太く短い竹刀で戦った者もあったが、しかし無刀流はその後急速に影をひそめ遂に無聲堂から姿を消すのである。

 

 

 

 堀師範の後を受けて大正八年九月京都武術教員養成所出身の古賀恒吉(師範在籍 大正89月~昭和61月)が着任し稽古を今日流にあらため無刀流の影響から脱した。そしてその年の十二月に念願の第一回の優勝を達成し、その後左記初優勝をふくめ大正十二年に至る間に四回の南下戦優勝を成就した。       

 

 古賀師範の指導振りを評して剣道部長上原菊之助先生(四高在職 明治359月~昭和73月 東洋史)は次のとおり述べられた。   

 

「四高選士は古賀先生を迎えることになり、恰も先生の拑槌の下に気力の連続ということを自覚するに至り、初めて優勝を重ね、天下に覇を唱うるに至った。この気力の連続とは、拙生が古賀先生の使い振りを拝見して作りたる説明的文句で- 中略- 剣を執ったら最後、先を取り先を取り、疾風の枯葉を巻くがごとく相手の業の盡きるまで、気力を旺盛に持続して戦い抜き、相手の業の盡きたる瞬間、こちらの一発が物を言う具合に、打ち出したら最後の一発に物を言わせるまで気力を弛めぬ稽古が肝要です。」     

 

″気力の連続″これこそ四高剣道をして四度中原に覇を唱えしめた古賀先生の中心的指導原理であり、その後も長く南下軍の無聲堂における剣の傳統となったところのものである。       

 

 昭和に入ってからも無聲堂に一貫して流れたものは、厳しく激しい稽古であり、剣にかける若者の情熱の烈しさ、執念の深さ、その密度の濃さであった。常に優勝候補とみなされながら昭和十七年の全国高校大会までついにその夢は叶わなかった。しかし昭和五年の準優勝をはじめ三位が五回と必ずしも悪い戦績ではなかったが、四高は優勝しか念頭になかったのである。

 

全国大会は昭和十八年 十九年と戦況逼迫で中止となり二十年終戦で剣道部は廃部、その復活は金沢大学剣道部の発足まで待たねばならなかった。

 

 

 

   参照

  無刀流の系譜

 

大学と剣道部の創設 その歴史

平成24年6月20日

金沢大学剣道部の沿革(昭和27年から平成17年まで)

昭和24年に金沢大学が創設され、後の初代剣道部長千田勘太郎先生(昭和3年度高専大会四高南下軍大将 昭和27年教士)が理学部教授に就任、同じく後の初代剣道部監督森原一二先生(武専卒 昭和39年範士)が大学職員として入られた。昭和25年には、後に2代目監督となられる相内俊雄先生(昭和62年範士)が法文学部講師(後に法学部教授)に就任された。昭和27年11月10日、金沢大学撓(しない)競技同好会(金沢大学剣道部の前身)が、千田先生のお勧めを受けて、香谷 進(昭和28年卒)や中川武徳(昭和31年卒)が呼びかけ、学生総計5名(後に10名)により発足した。森原先生が指導にあたられた。


翌28年7月、文部省次官通達により高校以上で剣道を体育・運動の一つとして実施してもよいことになり、全日本学生剣道連盟が結成された。この年、第1回全日本学生剣道優勝大会が開催された。
昭和29年4月、大学から正式に剣道部として認められ、体育館裏の木造棟割長屋の一室に部室も与えられた。剣道部長千田勘太郎先生 監督森原一二先生 主将中川武徳、部員は経験者が殆ど卒業してしまい、中川以外は初心者も同然であった。千田先生は戦後中断した四高剣道を伝えるべく金大剣道部創立を推進された。剣風は剛毅果断、なにより「先」を重んじ、相手よりも2センチでも3センチでも遠間から捨て身技で勝負を決する剣道を良しとされ、無駄打ちを戒められた。怒涛の如き飛び込み面を得意とされた。ご自身が石川県の代表として創設に関わられた全日本剣道連盟であったが、その制定した試合規則が、後打ちも有効とし、コート外反則や時間制限を設けたことを快しとされなかった。36年に健康を害し竹刀こそ執られなくなったが、剣道部の育成に尽力された。今日、現役・OB交歓の剣道大会が「千田杯記念」の名を冠しているのも故無しとしない。昭和49年逝去。

森原先生は、まだ同好会的気分の残る部員達に慈父の如き包容力で剣道の妙味を教えられた。巨躯を自在に捌きながら引き立て稽古を付けられ、彼らも先生目掛けてぶつかっていくことで次第に剣道を身に付けていった。また、剣道稽古の後で先生ご自身の居合稽古をされるのを拝見するのも部員達の楽しみであった。昭和37年金大剣道部10周年記念0B大会の記念写真にもOB・現役に囲まれた剣道着のお姿が見られる。昭和52年逝去。

中川武徳は、4歳の時から大島治喜太範士(相内先生の岳父)の建武館で剣道を始めた。大学1年の時、稽古が再開された金沢野町善隣館で千田先生の知遇を得、香谷と共に前身である同好会を立ち上げた。県剣道界若手のホープであり、部員の信望を一身に集め、よく率いた。また四高剣道部先輩と交流を深め、全日本学生剣道連盟加入・同剣道優勝大会出場・北陸学生剣道連盟創設にも奔走し、金大剣道部の礎を築いた。社会人となった後も、初代剣友会長として剣道部の支援に心を砕いたが病を得て昭和57年、若くして逝った。その名は、「千田杯記念剣道大会」で、その年もっとも剣道部に貢献した部員に与えられる「中川杯」に残る。

相内先生が小体育館に瓢然と現れ、部員達に「一緒にやらせて貰ってもいいかね」とおっしゃって稽古に参加されたのは昭和29年半ばである。その時のいでたちは洗い晒して羊羹色になった剣道着と旧陸軍将校の乗馬ズボンという、当時でも既に見られないような質素極まるものであった(先生は京城中学で正選手であったが4年からは陣内(じんのうち)道場に住み込み修業された。京城帝大卒)。この後、自然と監督に推され昭和54年3月退官まで在任された。
先生の剣風は堅実無比と言うべく、「試合に負けるのは弱いからである。人並みの稽古では人並みにしか強くなれない。人より強くなるには稽古の量や質で上回らなければならない」と「一に稽古、二にも稽古」を正に身を以って示された。部の伝統的に自由な雰囲気は是認されながらも、部員達に自主自律の厳しい稽古を望まれた。監督を退かれた後も平成2年ごろまでは部員に稽古を付けられ、その絶妙な摺り上げ面は今もなお先生を敬慕する教え子達の語り草である。コンパにも常に出席され、部員達と親しまれた。「剣友」と「無我」にも平成8年まで欠かさず寄稿されている。平成10年逝去。先生を顕彰して「千田杯記念剣道大会」に相内杯が設けられ、女子の部の優勝者に与えられることになった。

ところで、部活動の最大の眼目は全日本学生剣道優勝大会(以降全日本男子団体)及び全日本女子学生剣道優勝大会(昭和57年から 以降全日本女子団体)並びに全日本学生剣道選手権大会(以降全日本男子個人)及び全日本女子学生剣道選手権大会(昭和42年から 以降全日本女子個人)における上位進出であるが、これらを中心に活動状況を見てみる。
全日本男子団体への初出場は昭和29年の第2回大会で、地区予選を経ずにエントリーできた。出場校は30校に満たず、地方からは数校に過ぎなかった。予選リーグで明治・甲南・大阪歯科大と対戦、大阪歯科大にのみ勝つことができた。昭和30年からは北陸学生剣道連盟(富山大・福井大・金大)が結成されて、第7回北陸3大学総合体育大会に剣道の部が設けられ地区予選となった。しかし他地区との格差は大きく、昭和32年まで地区予選には優勝するものの全日本男子団体は緒戦敗退が続き、翌33年第6回大会にようやく北海道学芸大を破り初の緒戦突破となった。なお全日本男子個人では昭和32年、蔵前が初めて2回戦に進出している。しかし、北陸学生剣道連盟加盟校が僅か3校であったため、全日本学生剣道連盟内に、他地区連盟との合併の気運が生じたので、昭和34年、信州大・新潟大と語らい北信越学生剣道連盟を結成した。皮肉にもその結果地区優勝は遠のき、次に全日本男子団体出場は昭和37年第10回であった。
その間、全日本男子個人には毎回選手を送り、昭和34年には作本が2回戦に進出、その年の優勝者、中京大1年の恵土選手(後に金大教育学部教授・剣道部監督・師範・部長)に当たって一本負けを喫するということもあった。なお、この大会で審判を務められた杉本雄三四高剣道部先輩(昭和10年卒 故人)は恵土選手の試合振りを評して「四高剣道部を全国制覇に導いた古賀恒吉師範若かりし頃を髣髴とさせるものがあった」(「剣友」第5号寄稿)と賞賛しておられる。
この後、全日本男子団体には、加盟校増加に連れ北信越の出場枠が広がった(昭和40年から2位以上、昭和51年からは3位以上)こともあって、昭和53年第26回大会までの間に昭和38・41・43・45・46・47・48年を除き出場出来たがいずれも緒戦突破はならなかった。言い換えると、昭和29年第2回大会初出場以来25回の大会のうち15回に出場して緒戦突破は昭和33年の一回のみであった。また、全日本男子個人においても上位進出はなかった。孜々として稽古に励むものの全国的なレベルには今一歩と言う所で足踏みを続けていた。
一方、創立後初めての女子部員(昭和47年にただ一人入部)の船木まやが、いきなり同年第6回全日本女子個人に於いて準々決勝(ベスト8)に進出、昭和50年同第9回にも再度ベスト8入りを果たし、後年の女子活躍の魁となった。因みに昭和48年には多数女子部員が入部し、男子に伍して活動するようになる。

昭和54年、恵土先生(大学在学中全日本学生剣道選手権大会で優勝2回、2位2回、その後全日本剣道選手権大会で2位1回、3位3回などのタイトル保持者)が教育学部助教授(後に教授)に着任、監督に就任されると果然、転機が訪れた。先生は、練習時間や場所が十分取り難い、有望選手が入り難いなど国立総合大学に有り勝ちなハンディキャップを克服して全国レベルを目指すべく、「勝たせること」を指導方針に、積年の剣道に対する科学的研究(「勝つ」要因の科学的手法による分析)から導かれた独特のプログラムで指導をはじめられた(その研究の軌跡は「恵土孝吉退官記念誌」に詳しい)。因みに「剣道時代」(昭和60年12月号)所載「大学訪問記シリーズ・金沢大学剣道部篇」中には「剣道の練習の場合、“稽古”という言葉がふさわしいが、金沢大学剣道部の場合は、“トレーニング”がぴったりだった」とあり、その一面を言い得ている。その成果は早くもこの年、全日本男子団体で21年ぶり、2回目の緒戦突破となって表れた。
以後、平成17年3月退官まで恵土先生が指導者として在任された26年間の主な実績に次の様なものがある。即ち、男女共、全日本団体・個人に毎回出場がほぼ定着した上、団体では、ベスト8に男子が1回(平成4年)、女子が5回(昭和58・59・60・63年)、ベスト16には男子が7回、女子が8回入った。

個人では、女子は、優勝:堀田陽子(昭和60年)、2年連続2位:小田佳子(平成1・2年)、ベスト8:船木まや(昭和47・50年)、小田佳子(同3年)、ベスト16には4人が入り、同男子はベスト16に小田(平成1年)、村井(平成10年)、ベスト32には5人が入った。
全日本以外でも、教育系大学学生剣道大会では、女子個人優勝に政二里佳(昭和57年)・藤田茂美(昭和63年)が、団体で男子が昭和58・平成6年に、女子が平成1・3年にそれぞれ2回ずつ優勝、西日本医科系大学学生剣道大会では中川亜由美が女子個人優勝(昭和60・62年)、近藤稔和が男子個人優勝(平成3年)、全日本学生剣道オープン大会では第2回(平成13年)に3段以上の部男子優勝 星野、女子優勝 相場、第3回(平成15年)に3段以上の部女子優勝 相場、2段の部女子優勝 中村、などが挙げられる。
この結果、金大剣道部は全国的にも名を知られるようになった。概して、千田先生・森原先生時代の昭和27年~29年が揺籃期、相内先生時代の30年~53年が勃興期、恵土先生時代の54年以降が、強豪校にもよく対抗する興隆期と言えようか。なお、恵土先生にはNPO法人「日本武道修学院」を設立、代表理事を務められる傍
ら、引き続き名誉師範として部員の指導に当たっておられる。 (文責 山崎 昭和33年卒)

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